内田栄一 芝居の軌跡

「創ったり壊したり」

 

 演劇とのかかわりは1960年、安部公房原作によるミュージカルコメディ「お化けが街にやってきた」や同年、共同執筆の「武器のない世界へ」だったが 1962年 舞芸座の為に執筆した「表具師幸吉(※注1)を執筆したことが、その端緒といえる。

 1964年 演劇集団 『発見の会』、現代演劇作家批評家集団 『鴉の会』 の立ち上げに参加。

 1966年5月 その 『発見の会』 で、「ゴキブリの作りかた(※注2)を執筆。

7月初演、その後再演、再再演(※注3)を行い好評を得た。

 1967年 「流れ者の美学」 を同集団で執筆上演し、小演劇運動の盛り上がりの中、アングラ演劇の先駆となる。ここでの第3作目となる 「都市計画ゴッコ」 (次回告知での題名)「でたらめバカのくそったれ」 の台本をめぐって紛糾し 『発見の会』 と袂を分かった。

 1968年 新宿のアンダーグラウンドシアター 『モダンアートじゅく』 で、すまけいを主演に迎え 「ゴキブリ王」 「ゴキブリ仁義」 上演。

 1969年に 「廃本・でたらめばかのくそったれ」(ゴキブリ製造所刊)のちに 「クスボリ共同隊」 で行動をともにする西田敬一と発行する。

 1970年 演劇集団 『変身』 に 「ハマナス少女戦争」 「日本列島子守唄」 を執筆。同年、俳優座で戯曲 「吠え王オホーツク」 を、俳優座の若手の依頼によって執筆したが、上層部の反対により、上演拒否される。この一件の後、若手らが脱退。以後、新劇のエスタブリッシュメントが、脱退、再編成を繰り返し、小劇場運動が勢いを得ていくきっかけのひとつとなる。

 1971年 演劇集団 『日本』 で舞台装置に荒木経惟を迎えて 「吠え王オホーツク」 を上演。チラシに荒木氏の写真を使用し、その荒木写真の過激さでチラシを置いてくれる喫茶店等が激減した。 同年、同劇団主催の三原四郎と共同執筆で三島由紀夫の自決に起創した 「春劇・おおにっぽん」 執筆、上演。 又同年、「混乱出血鬼」 「混乱出血鬼錯乱号」 を雑誌 『新劇』 に発表し、その作品を持って当時劇団 『変身』 の新人であったと外波山文明等と共に野外劇、軒下演劇と銘打って東北各地を周る。 5月、釜石の公園で 『はみだし劇場』 旗揚げ。 10月より、三上寛を加え、秋田、青森、北海道へと展開し NHK「さすらい」 (佐々木昭一郎企画・演出) でその模様が放映される。この作品は同年芸術祭テレビ部門で大賞を受賞する。

 1972年 アートシアター蠍座で 「芸術版吠え王くそーツク」 を すまけい、外波山文明等で上演。同年、結城人形座に 「ゴキブリの花」 を書き下ろす。夏から秋にかけて ”不明人” となり、長崎に滞在。その間、残された7月31日付けのメモをもとに西田敬一が具体化した作品 「ことぶき少女写真館」 を 『はみだし劇場』 都内旗揚げ公演として、高円寺会館(現 座・高円寺)、西武園の2カ所で行う。

 1973年 福島県いわき市湯本の廃屋で24時間演劇と称し、外波山文明を座長として一ヶ月間毎日芝居公演を行う(※注4)。 同年3月から  『週刊プレイボーイ』 誌に連載していた劇画原作 「噫 日本共産党五十年伝」 の打ち切り問題が浮上。天皇制批判や共産党批判が過激ということが打ち切り理由として挙げられたことから、急遽 「クスボリ共同隊」 という集団を結成。より過激な 「天皇の作りかた」 執筆。 『野戦劇』 と名付けて主に学園祭を中心に各地を周る。この活動は、1975年クスボリ共同隊分裂解散まで続く。

 1974年2月 「原宿学校」(演劇その他の学校)の卒業公演 「ユビュ王」 に招待され、そこで舞台進行中に突然、白いスーツのヤクザ姿で登場した金子正次(映画「竜二」(’83)主演・脚本)と出会い、その演技パフォーマンスを激賞。 同年、金子正次の依頼で卒業生の劇団 『NAV』 の作品を監修し 「聖四畳半戦争」 として演出上演。  金子正次と共に 『東京ザットマン』 後に 『ザットマンセブン』 で60年代よりのアングラ演劇の先駆者にふさわしい数々の公演を行う(※注5)

 1978年 「遠いはるかなオホーツク」(自作TVドラマ『七人の刑事』より)を最後にザットマンセブンを離れる。

 1983年 前年出会った田口智朗(トモロヲ)とパフォーマンス集団<わ>で 「佐川君の作りかた(※注6)」 「演劇の作りかた・こわしかた」 「夢の作りかた~逆噴射機長と虹の消防士」 を公演。

 1984年11月、83年11月6日に急逝した金子正次を追悼する 「銀幕少年王~金子正次への報告公演(※注7)」 を作・演出し、かつての 『東京ザットマン』 と『ザットマン2』 を結成、池袋の文芸座ル・ピリエで公演。

 1985年 『集団・銀幕少年王(※注8)』 を結成。数多くの公演を行う。

 1986年5月 「新・ゴキブリの作りかた」 8月 「100M決勝(※注9)」 11月 「ちょうちん」(金子正次原作) この上演の後、銀幕少年王を発展的に解散、1987年 『銀幕少年王ランニングシアター』 を結成。中野Plam-Bを拠点に、パフォーマンスの方法論をさらに深化させてゆく。

 1987年 「ランニングシアター100M決勝2」 「嘘つきレトロ競争」 「ザ・映画祭だ!」 「家族爆発~世紀末のしあわせのために」 「ぼくらの夏休み」 「ぼくらの都市ゲーム」 など数多くの公演を行う。

 1990年4月 「7月のブタ」を最後に演劇活動を中止(※注10)以後 映画 「きらい・じゃないよ」 の製作・監督へとシフトチェンジして行く。

 

 

 

 

 

 ※注1 この作品は87年に劇団 燐光群(演出:坂手洋二)により 「光文63年の表具師

      幸吉」 として上演される。

 ※注2 演出:瓜正良介、美術:ワダエミ、出演:牧口元美、月まち子 他。

 ※注3 67年の再再演には、斉藤晴彦、山谷初男、佐藤重臣なども出演。

 ※注4 このとき芝居を見に来ていた秋吉久美子を発見。そして74年の公開される秋吉

      久美子主演作品 「妹」 「バージンブルース」 (監督:藤田敏八)の映画シナ

      リオを手がける。

 ※注5 1975年 「美少女自動販売機」 舞台一面に、山のように散らばったコカコーラの

      空缶の中から、1本だけ中身の入っているコカコーラを探し、見つけだし美味そう

      に飲む、金子正次の一人芝居。

 ※注6  この芝居で舞台上にウドンやゴミをばらまき、この劇場の立入禁止となる。衣装を

       伊藤清美が担当。

 ※注7  映像:山本政志、音楽:ばちかぶり(田口トモロヲ)、友情出演:流山児祥。

 ※注8  『東京ザットマン』 にいた木村孝志、川中健次郎(現 燐光群)を中心として結成。

       旗揚げ公演 「ぼくらガジェット人間」。

 ※注9  この公演より90年 「7月のブタ」 まで伊藤猛が参加。

 ※注10 この頃、映画監督の高橋玄、萩生田宏治、園子温らと知り合い、7月に

      「きらい・じゃないよ」 クランク・イン

 

 

以上、内田栄一著作権継承者 児島美奈子が記したものに加筆する。

尚、敬称は略させていただきました。

 

 

ハイライトシアター 伊藤猛